魂の覚醒(統合)をしたら順風満帆?覚醒(統合)は一度だけ?
「魂の覚醒(統合)をしたら順風満帆だと思ったのに…」というご異見や「魂の覚醒(統合)は一度だけだと思っていたのに」「1度覚醒すれば大丈夫ですか?」というご意見やご質問がありましたので、今日はこの事についてお話致しますね(^^)
魂の覚醒(統合)後の學び
まず魂の覚醒(統合)をした後は、何も起こらず順風満帆な人生を送れるのか?という事ですが、何も起こらないという事はありません。
順風満帆については、あなたがそれをどう捉えているかにより変わります。
ネガティブだと感じる出來事が起きても、そこから學びを得ていく人生を楽しんでいる方は順風満帆な人生だと感じるでしょう。
なぜなら、魂が學びにより成長する為にはネガティブな出來事も必要な事を知っていますし、そこから學びを得ると次のステージへ向かい、よりポジティブな出來事が起こる事を知っているからです。
だから、その出來事から真剣に學ぼうという姿勢があり、でも重々しいという感じではなく果敢にその出來事に向き合い、楽しんで「さぁこの出來事から何を學べるかな~⁈」って軽やかに氣づきを得ようとします。
だから、きちんと學びを得られるので覚醒(統合)前よりは、苦しいと思える出來事は長く続く事がないんです。
このように順風満帆だと感じるのは、人それぞれのその時のエネルギーの状態や覚醒(統合)の段階により、異なると思います。
覚醒(統合)したと言ってもここに生きている限り、全く惡い事や辛いと思うような出來事が起こらずに、良い事ばかりの人生になるという事はありません。
學び成長する為にここに生まれて來ているのですから…
魂の覚醒(統合)のプロセスとその意義
もし、もうここまでやったから學ぶ事はもう終わりと學ぶ事を放棄したとしたら、魂が覚醒し本来の自分として生きる道へと入ったのに、あなた自身の波動や精神性が低くなっていきます。
今世での學びが終わる時は、死を迎える時です。
それまで魂を成長させる為に學び続けるのが、今世での使命でもあると思うのです。
しかし、覚醒(統合)したばかりの方ですと、それを「またネガティブな出来事がやってきた!」「覚醒(統合)したはずなのになぜ…」と感じてしまうと思います。
魂の覚醒(統合)は一度きりではない
魂の覚醒(統合)は1度だけで終りという事はありません。
何度も何度も覚醒(統合)し、成長し続けます。
その覚醒(統合)の度に、本来の自分との統合がなされていきます。
最初の魂の覚醒(統合)を経験した方は分かると思いますが、覚醒(統合)して目の前がパーっと開いたようなキラキラした世界になったような経験や、スポーンと何かが抜ける感覚や憑き物が落ちたような経験をして、「もう大丈夫!」という安堵感を感じると思います。
しかし、そう思ったのも束の間、また落ち込むような辛い体験や苦しい思いを体験します。
その時「なぜ?覚醒(統合)したのに!」と悲しくなると思います。
だって、様々な体験から学び、思い出したくもない感情を再び蘇らせそこから氣づきを得て、やっと覚醒(統合)したのですから・・・
なぜすぐこのような状態になるのかと言うと、お試し的な試練や揺さぶりにより起こる出來事なのです。
【魂の覚醒後の変化・揺り戻しと覚醒後の感情の変化】スピリチュアリティの道をご参照下さい。
覚醒(統合)の各ステージとその体験
簡単にいうと、生まれてから最初は寝たきりですが、そこから何度か寝返りしようとしても出来ず、やっと出來て、徐々にハイハイが出来るようになっていきます。
そして何かにつかまり、立つ事が出来ます。
これが様々な出來事から氣づきを得て、成長しようとしている段階だと思ってください。
独り立ちは出來ませんが、何かにつかまり立つ事を覚えます。
その後、何にも頼らずに一人で立てるようになります。
このような感覚が覚醒(統合)です。
「やっと一人で立てた!」と嬉しくなりますが、すぐに座り込んでしまったり転んでしまったりします。
それと同じように最初覚醒(統合)したとしても、まだしっかり一人立ち出來ないのと同じ状態なんです。
100%の内10%覚醒したというような感じでしょうか?
そこからまた成長すると、長時間立っていられるようになりますし、歩けるようにもなっていきます。
歩けるようになっても、転ぶ事はあります。
幼稚園に入園する頃には、言葉も話せるようになりますし、コミュニケーションも取れるようになります。
だんだんと成長していきます。
そして転ぶ事も少なくなり、年齢が上がるにつれ、様々な事が理解出來るようになっていきます(^^)
言葉もどんどん上達し、大人が言っている事も成長していく内に徐々と理解出來るようになっていきます。
これと同じように、魂が覚醒(統合)しても學び氣づきを得る事で更なる覚醒をし、成長し続けるのが、私達がここに生まれてきた目的であり使命でもあるのです。